Side Afet
柔らかい風が吹き抜ける。
ふわりと漂ってくるのは、自分の空間に植えられたラベンダーの香り。
此処が、私の居るべき場所。
此処が、私の鳥籠。
私はそう感じていた。
天界は、間違いなく良い場所だ。
少なくとも、生まれた時からずっと天界に居た私たちのような存在にとっては。
風は優しく穏やかで、気候も良い。
飢えも乾きもなく、常に魔力に満たされている。
争いもない。
そんな退屈なまでに平和な空間だ。
大体の天使はこの世界に満足している。
否……"それ以外の世界"への興味がない、というのが正解だろうか。
この世界で生きていけるというのに、何故わざわざ他の世界に行こうと思うのか。
そう考えているのか、或いは何も考えていないのか……
きっと、そうあれれば平和だったのだろう。
そう、私も考える。
憧れるだけで、そちらへ踏み出す勇気がないのだから、尚更。
私はどちらかと言えば、人間に近い天使なのだろう。
それはザドキエルという天使のあり方故、なのかもしれない。
私が親しくしていた友人たちも同じような背景を持つ天使だから。
人間界は私にとって、とても興味深い場所だった。
天界よりずっと、暮らしにくい場所だろうに。
暑さ寒さがあり、天使とはいえ腹も減るらしい。
治安も当然良くない場所だってあるし、魔力も薄い。
暮らしているのはとうぜんただの人間ばかりだ。
特殊な魔力を持つ自分たちのような存在は恐れられたり避けられたりする可能性もある。
……それでも。
憧れずには、居られなかった。
一体どんなものがあるだろう。
人間界で暮らすというのは、一体どういうものだろう。
そう夢想しては、すぐに首を振る。
行きたいのなら来れば良い、とかつてからの友人は言った。
来るのなら、案内くらいはできると。
しかしそれに頷くことが出来ない私は、やはり臆病なのだろう。
外に出ることは確かに出来る。
人間界に行くこと自体は、罪ではないはずだ。
それが、一度だけならば。
……そう、一度だけで済むならば。
思い出すのは、以前友人に聞いた、地上におけるお伽噺の一つ。
人魚姫の物語だ。
海の世界のお姫様。
きっと不自由なことは何もなかっただろうに、そのお姫様は海を出た。
魔女に頼り、美しい声と自由に泳げる尾を棄てて、歩む度に痛む人間の足を手にいれた。
王子と添い遂げられなければ海の泡となって消えてしまうという呪いを背負って。
私はそこまでの覚悟を決められない。
天界に戻れなくなる、戻らなくなるリスクを背負ってまで地上に降りたいとは思えないのだ。
そんな自分はきっと臆病なのだろう。
……それでも。
自分のところへ訪ねてきてくれる友人が返る時。
いつもその背に、言いたくなる。
―― いっしょに連れていって。
―― おいていかないで。
私はいつも此処に一人でいるけれど、別に此処に閉じ込められている訳ではない。
いつでも鳥籠の鍵は開いていて、私が手を伸ばせばきっと、あの友人はその手を取ってくれるのだろうけれど。
その手を握ってしまったら。
一緒に地上に降りてしまったら。
私はもう、"戻れない"気がして。
それが普通だ、とカライスは笑ってくれた。
お前の方がきっと頭が良い、とも。
"天使としては"それが正解だ、と。
けれど彼は、自分の行動を後悔していないといっていた。
今の生活が楽しいとも言っていた。
恐ろしくて聞けなかったけれど……もし天界と地上とどちらを選ぶかと問えば、彼は迷わず後者と答えるだろう。
ともすれば、彼も"処分"されてしまう。
それだけが、私の心配だった。
嗚呼、いっそ。
皆、皆、地上に降りず、天界にいてくれたら良かったのになあ。
そんなことを考えて、苦笑する。
きっとそんな未来は望めなかった。
だって、天界はとっくに停滞している。
平和というのは裏を返せば何も変化がないということ。
何も変化がないというのは発展が無いということ。
停滞し続ける世界に居ることは、きっと酷く退屈だ。
否、否、"普通の天使"はそれが当たり前だと思うのだろうけれど。
「……もし」
私が、この場所を離れたとして。
地上に、私が居ても良い場所があるのだとしたら、どうだろう。
人魚姫のように、泡となって消えるのではなく、"誰か"の傍に留まることができたなら。
それならば、私は……
その刹那。
リリン、と微かなベルが鳴る。
ふわりと、ラベンダーに混ざる、白百合の香り。
嗚呼、どうやら仕事のようだ。
そう思いながら、そっと息を吐き出した。
―― 開いたままの… ――
(鍵は、扉は、ずっと開いたまま)
(そこから踏み出す勇気があれば、良いのに)