深く、溜息を吐き出す。
静かな、夜の食堂。
任務を終えて帰ってきたらしい風隼の騎士がちらほらいる程度の此処は酷く静かで……
流れてきた紫の前髪をそっと耳にかけたとき、目の前にカップが置かれた。
シストは少し驚いて顔を上げる。
カップを置いた人間……フィアは彼の顔を覗き込みながら、小さく首を傾げた。
「少しは落ち着いたか?」
一瞬きょとんとしたシストだったが、すぐにその問いかけの意味を理解する。
小さく苦笑を漏らした彼は軽く肩を竦め、頷いた。
「あぁ、まぁな」
曖昧にそう返す彼を見て、フィアは眉を寄せる。
それから小さく溜息を吐き出して、軽くシストの額を小突いた。
「嘘をつくな」
そう言いながら、フィアはシストの前に座る。
彼の手にも、シストの前に置かれたものと同じカップがある。
ふわりと漂うのは淡い紅茶の香り。
夜だからと気を使ってくれたのだろう。
そう思いながらシストはカップを傾けた。
脳内に残っているのは、昼間の任務中の出来事。
討伐対象であった魔獣にかけられた魔術の中で見た悪夢。
それが脳にこびりついたまま、離れない。
シストの曇った表情を見て、フィアはもう一度溜息を吐き出した。
それから、少し躊躇いつつ、シストの手を掴む。
驚いて目を見開く彼をよそに、フィアは彼の指先を自身の手首にあてさせた。
微かに伝わってくるのは、彼の脈拍。
瞬くアメジスト色の瞳を見つめ、フィアは言った。
「ほら、ちゃんと生きているだろう」
鼻を鳴らし、フィアは彼の手を離す。
らしくない行動だな、と思いはしたが、揶揄うのはやめておくことにした。
彼なりに、気を使ってくれたのだろうから。
そう思いながらシストは苦笑を漏らし、肩を竦める。
「わかってる、わかってはいる、んだけど」
実際、理解はしている。
あれはただの夢で、魔術も解けた今、恐れることなど何もないのだということも、眼前に居る相棒が確かに生きていることも。
けれど、とシストは目を伏せた。
「……まぁ、理屈じゃあないよな、こういうのは」
そんな言葉と同時、ぽんと頭に手を置かれた。
顔を上げれば、困ったように笑っている統率官……ルカの姿があって。
「やっぱりまだ落ち込んでたか」
どうやら彼もシストを心配してこうして顔を見に来たようである。
嬉しい一方で少し情けなくて、シストは苦笑を漏らした。
「気にしすぎなんだ、お前は」
そう言いながらフィアはカップを傾ける。
彼はいつも通りの表情に見える。
やはり自分が気にしすぎなのか、とシストが溜息を吐けば、ルカがフィアの頭を軽く小突いた。
「そう言ってやるなって。実際、さっきまでフィアも似たような状態だっただろ?」
今でこそ平然としてるけどな、とルカは笑う。
フィアは一瞬大きくサファイアブルーの瞳を見開いた後、ぷいとそっぽを向いた。
「……知らん」
そう返した彼はカップを置いて、席を立つ。
そのまま部屋を出ていく彼を見送って、ルカはくつくつと笑った。
やれやれ、と肩を竦める彼を見て、シストは小さく首を傾げる。
「そうなのか?」
シストはフィアとルカにあの夢から助けられた。
だから、いつも通りに振舞っている二人しか見ていない。
フィアが自分と同じ状態だったと言われても、今一つ信じられない。
ルカは彼の問いかけに頷いて見せる。
「あぁ。多分あいつが見せられてたのもお前と同じような夢だな。まぁ、死んだのは俺だったみたいだけどな」
そう言いながら彼は肩を竦める。
シストはその言葉に小さく頷いた。
「フィアにとっては唯一の家族だもんな、ルカは。お前が居なくなるのが一番の悪夢だったんだろう」
フィアとルカ、シストからの情報を総合して突き止めたのは、あの魔獣の能力が魔術をかけた相手にとって一番の悪夢をまるで現実のように経験させることだと水兎の騎士たちが突き止めた。
一番の悪夢、一番恐れることを経験すれば人間の心は折れる。
その感情を喰らい、成長する厄介な魔獣であるようだった。
これ以上被害者が出る前に仕留めに行かなければならないと三人が心に誓ったのは言うまでもない。
フィアが見ていたのは、ルカが死ぬ悪夢だったらしい。
彼にとってルカは唯一無二の家族だ。
彼を失うことをフィアが恐れているのは間違いないだろう、とシストはいう。
ルカもそれを聞いて小さく頷いた。
「そう思ってくれてるらしい、ってのははっきりわかったよ」
普段、フィアはルカに当たりがきつい。
上官と思っていないかのような反応や態度も多いし、照れ隠しや反発で手や足が出ることも多い。
しかし、それすらもルカを大切に思っているが故の言動、行動であることは、フィアやルカと親しい人間にはよくわかることだった。
シストは彼の言葉にそっと目を細める。
そして、ふと思い出したことを口に出した。
「というか、俺やフィアがあの夢の中にいたとき、どういう状態だったんだ?」
あの悪夢の所為で消耗していたために詳しい状況が聞けていなかった。
シストがそう問いかければ、ルカはあぁ、と思い出したように頷いた。
「寝てた、って感じだな。酷い悪夢見て魘されてるような感じ。で、揺り起こそうと触れたら、その夢の中に入り込めた」
「それで、ああやって声をかけてフィアも起こしたってことか」
そうシストが言うのを聞いて、ルカは少し考え込んだ後、頷いた。
「あぁ。……まぁ、ほっといても起きたかもしれないけどな」
そう言って笑うルカ。
それを聞いてシストは不思議そうに首を傾げる。
ルカはふっと微笑むと、言った。
「確かに膝を折ってたし、泣きそうな顔もしてた。
でも、もう少ししたら……自分で立ち上がってたと思う。
俺が声をかけなくても、ちゃんとあの夢から立ち直ってたんじゃないかな、ってさ」
「……なんで、そう思ったんだ?」
シストはルカにそう問いかける。
ルカは少し考え込む顔をした後、小さく首を振った。
「確信はない、でも……アイツはそういう奴だからな。
恐らく、"俺(ルカ)ならこう言うだろう"って自分で考えて、立ち上がっただろうな、って思うんだ」
その目に灯るのは、大切な家族への強い信頼。
眩しい程のそれを見て、シストは目を細める。
そして、自分の不甲斐なさに少し眉を寄せた。
彼の心情が手に取るように伝わったのだろう。
ルカは小さく笑うと、ぐしゃりとシストの頭を撫でた。
「拗ねるなよ、お前が弱いとか悪いって意味じゃあない。
そもそも、エルドのことがあった上でのあの夢だ。
あんな経験してもなお騎士として働いてるお前を俺も誇りに思ってる。
……でもその分、あの手の魔術のダメージがでかいのも事実だし、仕方ないことだろ?」
ルカはそう言って首を傾げる。
シストはその言葉に小さく頷くと、溜息を一つ吐き出した。
「……本当に、助かった。俺は多分、ルカたちが来てくれなかったら……」
そこで彼は言葉を飲み込む。
口に出せばそれが現実になる気がして怖かった。
ルカはそんな彼を見て微笑む。
そしてもう一度乱暴に彼の頭を撫でながら、言った。
「そんなに落ち込むなって」
「落ち込んでないよ。……というか」
決まり悪そうに咳払いをしたシストはふと思い出したように、ルカの方を見た。
「ルカは無事だったってことか?」
「ん?」
小さく首を傾げるルカ。
その紅の瞳を見つめ、問うた。
「フィアを助けに入れた、ってことはお前が最初に動けた、ってことだろ?」
お前にはあの魔術が効かなかったのか、とシストは問いかける。
ルカは視線を揺るがせて、がしがしと頭を掻いた。
「あー……まぁ、魔術にはかかってたし、かかり方が浅かったってこともない、多分シストやフィアと同じように魔術はかかってたな」
少し言葉を選ぶように、ルカはいう。
つまり、彼も自分たちと同じような経験をしたはずだ、それなのに何故彼が一番最初に目を覚ますことが出来たのか、純粋に気になって、シストは彼に質問を重ねる。
「ルカは、どんな夢を見てたんだ?」
「色々、だな」
「は……?」
色々、とはどういう意味か。
怪訝そうな顔をするシストをちらと見て、ルカは少し迷うように視線を揺るがせた。
それからそっと溜息を吐き出して、ポツリと言う。
「まずフィアが死んだ、その後にシストも。
他の部下たちやジェイド、アレク、クオン、アンバー……みんな目の前で殺された。俺が魔術を使えれば、助けられたかも知れなかった」
その返答に、シストは絶句する。
彼が見ていた悪夢を実際に見た訳ではないが、彼の話だけで嫌でも想像がついた。
それは、きっと相当な悪夢だったはずだ。
「……キツかったろ」
やっとのことでそれだけ言うと、ルカは小さく頷いた。
「勿論。でも、立ち止まる訳にはいかなかった。折れる訳にはいかなかった」
そういうルカの紅の瞳には強い光が灯っている。
「例えフィアが死んでも、他に守るべき仲間がいる。仲間がいなくなっても、騎士として守らないといけないものはたくさんある」
そうだろ?
そう言って、ルカは笑う。
言葉を失うシストを見て、ルカは肩を竦めながら冗談めかして言った。
「流石に世界を滅ぼすレベルの悪夢は見せられなかったみたいだな、あの魔獣も。
一通りの悪夢を見た末に、自然と目が覚めた。
その後でお前たちを起こしにかかった、って訳だ」
そう言って笑うルカ。
彼を見つめ、シストは幾度も瞬く。
それからそっと息を吐き出して、彼は呟くように言った。
「……やっぱすごいよ、ルカは」
そんな彼の言葉にルカは苦笑を漏らす。
「揶揄うなよ」
「揶揄ってない、本気でそう思ってる」
真っ直ぐにルカを見つめ、シストは言う。
その言葉と表情に、ルカも表情を引き締めた。
「お前が部隊長だから俺たちも迷わずに歩いていけるんだな、って」
折れることなく真っ直ぐに前を向いている部隊長(ルカ)だから、自分たちも迷わずにいられる。
実際、エルドを喪った時もルカはいつも自分を支えてくれた。
相棒であるエルドを喪ったのは事実だが、ルカにとっても彼は大切な部下だったのだ。
喪って何も思わなかったはずはない。
それなのに……
そんなシストの言葉にルカは紅の目を見開く。
それから、照れたように頬を掻いて、言った。
「あんまり褒めるなよ、照れるだろ」
ふ、と息を吐いた彼は頬を薄紅に染めながら言った。
「ま、でも……シストたちがそう思ってくれてるなら、俺も嬉しいよ。
他の部隊長たちに比べて俺が劣るところが多いのも事実だ」
魔術が使えない。
それが大きな欠点であるのは事実だ。
それを補えるだけの力を付けたつもりではあるがそれだけでは不十分な面があることも事実だとルカは言う。
そして、真っ直ぐシストを見つめると、にっと笑って、彼は言った。
「俺だけじゃできないことも多い。
間違うことだってある。
だから、そういうときはお前が支えてくれよ?」
頼りにしてる。
ルカはそういう。
「……任せとけ」
そう応えて、シストもルカのようににっと明るく笑って見せた。
―― 前を向ける理由 ――
(折れる訳にはいかない。大切なものを守るために。
そう思って何度でも立ち上がれる彼は、強い)
(嗚呼、そんな彼奴だから、俺は、俺たちは……――)